中学内容すらできない大学生への対応に悩む講師たち

中学内容(基礎の基礎)を理解できていない大学生は増えている

「教科書が読めない子供たち」で話題になった下記著書では、大人も含めて読解力のなさが深刻であり、対策が必要であることを指摘している。そして、私自身も感じるところだが、高校、大学の教育現場では、確実に学力の低下を実感しているようです。

 

おそらく、この学力低下は、教育格差の広がりと、少子化のため、中間層が少ないことで起こるのではないかと推測されます。なんといっても18歳人口は、ピークだった20~30年前の半分近くにまで減りました。あらゆる場面でその影響を感じます。

子供たちの学力が低下しているというよりは、高度な教育を受ける素質がある子がさらに学力を伸ばしてしまうため、上位と下位の差が広がり、少子化と相まってまんなかくらいの子の人数が減る。相対的にできない子が目立つ。そして、AO推薦入試などの大学入試多様化と、全体の大学数定員数増加が相まって、どの大学にもできない子がいる状態。

よって大学教授や講師はその学力の低下を感じる。そして、大学生の質は確実に落ちているようです

予備校講師で有名な林修先生も「今の東大はスッカラカン」と発言しています。また、Fランク大学だけでなく、有名大学にも学習障害グレーゾーンと呼ばれる生徒たちが散見されるようになりました。予算不足の側面もあり、大学教育は危機的状況なのかもしれません。批判は多いでしょうが、選択と集中は致し方ないのかもしれませんね。

私の塾の生徒でも、理系学部にもかかわらず、化学の基礎知識が全くないような生徒が、指定校推薦や、AO入試で受かっていくのを何人も見てきました。国立大学でさえです。本当に世の中不公平だなと感じる時があります。(本当に努力している人が不合格になるケースが多発している)

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大学講師の抱える悩み

ある大学での英語講師の方から貴重なメッセージを頂きました。

有名私立大学に在籍する学生の中にも、中学英語すらできない症状を示す学生が実はかなりいます。学習障害を疑うレベルの学生も、そこそこ、います。そういった学生たちにどのように接するべきかがいつも悩みの種です。

中略

ところで、大学生に対する教育の仕方は、どうするべきだと思われますか。高校生までの子たちと決定的に違うのは、「設定するべき目標が明確でない」ということだと思います。高校生までの子には、とりあえずの目標として「大学合格」というゴールを示してあげることができるのでしょう。ですがそのゴールを一応「突破」した後の、大学生たちは、とたんに、目標を見失うようです。

英語を専門にしようと考えていない学生たちなので、余計、英語についてはやる気がない集団に見えるのかもしれませんが。やる気がないけど基礎学力がある、というならいいんです。英語ですから。
ですが、大学生だというのに、中学英語の、それもかなり基礎の基礎の部分が身についていない学生の場合、どうすればいいんだろう・・・と、いつも悩みます。

 

広い意味で同業者の方からの相談ですが、私塾の一講師の私ごときが意見をする無礼をお許しください。

しかし、このメッセージから推測するに、学力がバラバラで、しかもやる気がない生徒に、大学レベルの英語を教えることが、いかに難しいか、想像に難くありません。ぞっとします。目の死んだ、居眠りしている生徒を相手にするのはつらいものです。

本来なら、大学教育ですから、やる気ない、学力がない生徒は、どんな理由があろうと単位は出さなければ良いのでしょう。わからないなら、やる気ないなら出席しなくて良いと。ある一定以下の水準の生徒には単位を出さない。そうすると学生に緊張感が生まれますから、できないなりにも努力する。それが理想ですよね。

でも、この方はおそらく、さまざまな「大人の理由」でそう単純には割り切れないはずです。

一講師の独断で、必修だが一般教養教科である英語の単位を多数の生徒に与えないことは、おそらく仕組み上できないのでしょう。

日本の大学は、進級に甘い大学がほとんどです。学力がなくても入ってからある程度努力すれば、卒業できてしまう。もちろん、退学していく人もいますが、要領が良い人ほど、ろくに勉強もせず卒業できます。私がそうでした(笑)これでは、日本の大学卒業生の平均学力は低くてあたりまえですね。

この問題の解決策は二つ。

立場や状況はまったく違いますが、私が、いつも塾にきている生徒で、学習障害の疑いがあり、勉強にまったくやる気がない生徒を担当したとき、その対応として2種類あります。

一つ目は、ビジネスライクに割り切ることです。最低限の対応はしっかりし、できるだけ自分の労力をかけない。意志力をかけたいところにかける。つまりある程度であきらめる。

二つ目は、全く逆にとことん工夫して、できるだけ愛情を持って接する。そして、どう反応して、どのような成果になるか自分の好奇心から研究するつもりで自分自身心のバランスをとりながら進める。

この二つをケースバイケースで使い分けます。

おそらく、大学では、中学や高校ほど、先生と生徒の結びつきはなく、生徒は「必要単位取得のため」先生は、「お仕事」の要素が強いはずです。

そこを超えるには、かなりのパワーがいることが推測することができます。現実的にはそれは割に合わないでしょう。一般教養としての大学レベルの英語を教えるのであれば、ある程度、学力が低い生徒を切り捨てるしか方法はないのではないでしょうか。中学校レベルの説明に終始すると、せっかくモチベーションの高い優秀な生徒を置き去りにしてしまいます。

わたしなら、許容範囲で割り切りるしかないと、自分に言い聞かせ、熱心な生徒に力を注ぐでしょう。

もし、それができない場合、アクティビティに巻き込むしかないと思います。人前で、英語で自分の課題を発表させるとか、班編成をして、班単位で課題に取り組ませるなど(もうやっているかもしれませんが)。学力がない子がある程度モチベーションを保つ方向で工夫を模索するでしょう。ただ、それも自分がかけれる意志力の範囲で限界があります。

いずれにしても、これは講師の問題ではなく、大学側の入試体制、ひいては社会問題のような気もします。

産業界は、どの分野でもグローバルで活躍できる人材を強く求めるなかで、大学生の質の問題は、暗い影を投げかけていますね。

講師の持っている幻想を捨てる

お金をもらってどんな相手でも成績を上げることを使命付けられた塾講師、教えにくい基礎学力のない目標のない大学生の授業をする大学講師に共通することとして、

期待をしすぎるとしっぺ返しが来る

恋する人に片思いしている状態であることを忘れない

この二つを上げたいです。できないことを前提に、生徒には期待しない。そして、実際の学年より3つぐらい引いた学年の生徒を相手していると思って接すると、案外、お互い楽しく、そして、効果的な授業ができると私は思います。

 

 

 

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